神社仏閣どちらもご神霊や仏がいるところならご利益はあります。
神仏のいないところに参拝してたら逆立ちしてもご利益はありません。神社仏閣ならどこに行っても必ず本物の神仏がいる訳ではありません。
神職、僧侶が俗人と変わらなくても、本人が神仏の存在を本気で信じて真面目に祭祀、祈祷していれば大抵ご利益はあります。神職、僧侶が信心の無い単なる儀式屋ではどんなに有名どころでもダメです。
また神仏がいる所でお願いしても、叶う願い叶わぬ願いがあります。
努力もせず欲望のままに金運をくれとか、今結婚したら明らかに即離婚か、まともな生活ができないようならばいくら結婚相手をくれ~!と祈っても、神仏が「お前は先ずそういう問題じゃねえだろ?生活力もねえのに今結婚したら二人揃って共倒れだろが。その状態じゃまだ子供だって育てられないでしょ・・・」などと判断すれば当然叶いません。叶えたら不幸になりますから。
願いが叶わなかったら「努力が足りないのか?」「自分には業ばかりで徳分が足りないのか?」など何故叶えてもらえないのか、その理由を考えて反省してみる必要があります。
思い当たらなかったら取り敢えず善行をして徳を積みましょう。徳分は幸せの種ですから。
幸せの預金が無ければ引き卸しもできないのと同じです。
俗人の反応:
良いことを言われていますが、ご神霊やみ仏のおわします神社仏閣をどのように見分ければよろしいのでしょう?
多分、多くの人はそう思う事でしょう。
深刻な悩みであれば、自然に、導かれるように足がそちらに向き、御祈願のあと、お札を持ったまま、ふと立ち寄った書店で、
思いがけぬ問題解決のヒントになる本に出遭えたなんていうそういう経験も確かにあります。
私自身、とても偶然には思えないような。
私の考えでは、自分で成せる努力をしたなら、あとは一切を神仏に委ねることです。
ご利益がやって来るか、逆に試練を与えられるか、いずれにしても最終的にはその人のプラスになるように、
道筋をつけて下さると思います。
高野山僧侶の返答:
見分けは難しいと思いますが、境内の汚いところや足を踏み入れるとナニやら不気味。アヤシイ。気分が悪くなる。目眩がする。苦しくなる・・・。等の所は間違いなくアウトです。単に当日の体調が悪かったというのは除外しての話ですが。
神仏の居る神社仏閣はその境内に居るだけで気持ち良い筈で、上記とは全く逆の感覚がします。
これが見分けのポイントの一つです。私の経験だと、神社の場合は何だか安らぐようなホワーっとした気分になります。祈祷の盛んな寺院だと何だかテンションが上がってくるような感じとかが多いです。
神社と寺で比較すると神社は繊細で寺は荒い感じです。
良い神社の感覚の基準は伊勢神宮。関西なら住吉大社、熊野本宮大社を見本にすると良いでしょう。
全部感覚は違いますが良さが解ると思います。
寺なら比叡山。高野山なら金堂、大塔、御影堂周辺や奥の院とか特定の場所に限って参考になります。
東大寺と唐招提寺も良いです。